名古屋東照宮祭のごちそう
例年4月16日・17日に開催されている名古屋東照宮祭は、江戸時代には名古屋の風物詩として知られた城下町最大の祭礼だった。特に、徳川家康の命日にあたる17日には各町が名古屋城三之丸の東照宮へ参拝し、神輿を奉じて末広町の御旅所へと下る。山車や仮装などの出し物が続く祭礼行列は、多くの見物客の目を楽しませた。
当日は、日の出前の寅の刻(午前3~5時頃)から各町の出し物が御園御門前に集合する。門が開くと順番に三之丸の郭内へと進み、外堀に面した「内片端」と呼ばれる場所に休息所を設営して待機する。そして、辰之上刻(午前7時~7時40分頃)になると再出発して東照宮へと向かい、山車は順番にからくり人形の演技を奉納した。それが終わると、行列は神輿を奉じ、本町御門から城外へ出て、本町通を南下して御旅所へ向かう。御旅所では、雅楽が奏でられる中、神輿へ御膳が調進される。このとき、行列に参加している各町は周辺で休息所を設け、それぞれ休息をとった。
神事が終わると、行列は御旅所を出発し、本町通を戻って行く。そして、本町御門を通って三之丸へ入り、神輿が東照宮へ還御すると、行列は御園御門から城下へ退き、各町へと帰っていった。
ところで、行列に参加した町の1つに茶屋町がある。この町は、名古屋を代表する呉服商で、のちに松坂屋百貨店を創業する伊藤次郎左衞門家が居住していたことで知られている。祭礼には子供唐人を中心とする行列を出していた。
祭礼行列は早朝から一日掛けて運行するため、食事時間が設けられる。それは「町」という共同体を構成する旦那衆の付き合いや接待の時間となり、ここでどんな用意をするかが見栄の張りどころだったようだ。そのため、休息所に提げ重(携行用の重箱)を用意する「持提番」(もちさげばん)という役目が定められ、内外の客に対して食事や酒肴、菓子や茶をふるまった(これとは別に、行列参加者の弁当を用意する役もあった)。この役は年ごとに町内の各家が輪番で務めた。
当館には、伊藤家よりご寄贈いただいた古文書が所蔵されており、その中には茶屋町における祭礼運営の一コマを伝えるものもある。今回は、文化9年(1812)に伊藤家が「持提番」の当番として用意した献立を覗いてみよう。
写真1 「御祭礼持提献立之覚」表紙
まずは「三之丸行」と書かれた献立で、早朝に御園御門から郭内へ入り、三之丸内片端で設営した休息所で摂る食事である。茶屋町は藩士鈴木氏の屋敷前を借りて設営した。
表1「献立」(三之丸行)
献立 | 具材 | 数量 | 注記 | 備考 |
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重詰十五人分 | ||||
切飯 | 弐重 | |||
煮〆 | ちくわ、ふき、しいたけ、竹の子、さがふ | |||
取肴 | 大かまぼこ、車海老、小永いも、皮たけ、せうが漬 | 「皮たけ」は革茸(コウタケ)。 | ||
〆四重 外に酒二升 | 切飯・煮〆・取肴で四重。 | |||
右は三之丸行 | 三之丸内片端に設営する休息所へ持参。 |
ここでは、4重の重箱に15人前の食事を用意している。ご飯が2重、おかずが2重で、そこに酒も2升加わる。早起きで小腹の空いた時間帯に、軽く酒を酌み交わしながら無事に祭りの当日を迎えられたことを寿ぎ合い、気分を高めていった様子が想像される。
次は、「下行御町代様壱人前」と書かれた献立で、御旅所へ下った際に休息所(南寺町の寺院を借りた)で町代(現在でいう町内会長)に供された御膳である。
表2「下行御町代様壱人前」
献立 | 具材 | 数量 | 注記 | 備考 |
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御膳 | ||||
差味 | あらい魚、まつえ、わさび、けんほうづき | 「差味」は刺身。「まつえ」は松枝。「けんほうづき」は鬼灯を「けん」(いわゆる「つま」)としたということ。 | ||
汁 | 小竹輪、椎たけ、貝割 | |||
香の物 | ||||
煮酒 | 調味料の「煎り酒」のこと。 | |||
御飯 | ||||
平(俊寛) | かすてら、竹の子、椎茸、梅干、ふき | 「俊寛」は煮物の一種。 | ||
猪口 | あかざしたし物 | アカザ(食用の野草)のおひたし。 | ||
焼もの | 中鯛 | |||
御酒 | 弐樽 三升 | (後筆)又まし 壱升 | ||
味醂酒 | 弐合 | (後筆)亥ノ年より相止メ 尤御町代御酒御用ひに付 | 飲用品としての味醂。町代の口に合わなかったのか、亥年=文化12年(1815)から酒1升に変更された。 | |
鉢肴 | たい | |||
以上 | ||||
御菓子 | 角ようかん、青塩かま、紅番かう | 「紅番かう」は他の年では「紅梅かう」とも表記。 | ||
御茶 | 但しひき茶 | |||
干菓子 | ||||
右は御町代様え御馳走分 |
刺身、汁、香の物、飯、平、猪口、焼物の一汁五菜に調味料の煎り酒が添えられ、酒と鉢肴も加わるとても豪華な内容である。特に、平皿に「かすてら」とあるのが目を引くので、少し寄り道をして掘り下げてみよう。
写真2 かすてらの記載
「俊寛」(しゅんかん)は「笋羹」「筍羹」の当て字と思われ、これはタケノコを中心とした煮物であるから、その中にカステラが入っていたというのは現代の私たちから見ると奇妙に思われる。
しかし、江戸時代のレシピ本『菓子話船橋』を見ると、当時のカステラは小麦粉・玉子・砂糖のみのシンプルな原料で、やわらかさやしっとりさを生み出す水飴を使用していないため、味わいや食感が現在のものとは異なっていたようだ。また、京都の菓子商萬屋五兵衛は、カステラについて茶菓子はもちろん、寒暑に応じて冷水や湯を注いで食したり、大根おろしやわさびを添えて酒肴としたり、「煮物のさし込」などとして利用することを推奨しており(『古事類苑』飲食部)、当時としては違和感なく賞味されたものらしい。
これも江戸時代のレシピ本である『料理物語』によると、「しゆんかん」は具材に「玉子 ふのやき」を入れるという。この玉子の「麩の焼き」(小麦粉を水で溶いて薄く焼いたクレープのようなもの)に代わるものとしてカステラが使用されたのではないだろうか。
さて、本題に戻ろう。最後は「十五人前」と書かれた献立である。
表3「十五人前献立」
献立 | 具材 | 数量 | 注記 | 備考 |
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小皿 | したしもの | |||
汁 | 小竹輪、椎茸、貝わり | |||
平 | 竹輪、ふき、竹の子 | |||
めし | ||||
小櫛 | 「小櫛(小串)」とは並べた魚の長さに合わせて串を打った焼き物。 | |||
硯ぶた | 大かまぼこ、海どせう、れんこん、小永芋、かわたけ | 「海どぜう」はギンポ。 | ||
香の物 | うり漬 | |||
鉢もの | したしもの | |||
小重 | こぐし、したしもの、とり肴、にしめ | 壱組 | ||
右之通拾五人前別段に申付可申事 |
これも膳部となっている。他の年の献立には「町内取持分」とも見え、「取持」とは接待のことであるから、慰労やあいさつのため休息所を訪れた町内の旦那衆などを町代と相伴させてもてなしたものと思われる。こちらに酒の記載は無いから、おそらく町代が主人として客に勧める形を取ったのだろう。
こうした豪華な献立の内容からは、江戸時代後期の名古屋城下町で繁栄を謳歌した旦那衆の交流のひとときが偲ばれる。なお、この年伊藤家が持提番として仕出屋の近江屋久助へ支払った代金は銀65匁で、これは現在だとざっと2、30万円余りの金額である。このうち35匁・10人前分は町内で費用を出し合ったものだが、残りの金額は伊藤家がサービスで5人前を増量し、さらにいくつかの品目を追加したものであった。
(鈴木雅)
501-99-434-1「文化九年壬申四月 御祭礼持提献立之覚」館蔵(伊藤次郎左衞門家資料)
※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。
『料理物語』寛永20年(1643)刊(『日本古典籍データセット』(国文学研究資料館等所蔵)にて閲覧)
『菓子話船橋』天保12年(1841)刊(『日本古典籍データセット』(国文学研究資料館等所蔵)にて閲覧)
『古事類苑 飲食部』(普及版)吉川弘文館、1980年。
名古屋市蓬左文庫編『名古屋叢書三編 第五巻 尾張年中行事絵抄 上』名古屋市教育委員会、1988年。
粟津則雄ほか『カステラ文化誌全書』平凡社、1995年。
仮屋園璋『カステラの科学』光琳、2004年。
新修名古屋市史編集委員会編『新修名古屋市史 資料編 民俗』名古屋市、2009年。